越中稲荷神社

山田孝雄博士 -富山市名誉市民 文化勲章受章者-  国語/国文学者

やまだ よしお

生い立ち

山田孝雄博士山田孝雄(よしお)は、現在越中稲荷神社宮司を務める十二代山田家当主山田方輝(まさてる)の曾祖父、九代当主山田方雄 (まさお)の次男として生れた。
父の方雄は、宮司で国学者で富山藩の連歌の師匠も務めていたこともあって孝雄は、幼い頃から典籍にも触れ、国語・国文学にとどまらず国学・神道と多方面に渡り活躍した。
現稲荷神社の宮司の方輝は、博士について8月の中旬の母親の命日に帰郷し墓参りに訪れました。
その際に故・大島文雄先生ら郷土の知人と楽しい時間を過ごしたり、時間を見つけてはよく本を読んでいました。散歩に行くと道の草花から政治の話題まで、百科事典のように詳しく教えてくれました。
拡大表示するしかし、学問に対する姿勢は厳しかった。子供の頃日本史について質問したところ「よく勉強してから 聞きなさい。」と、注意されました。
「自分でとことん調べなければ、学問は、身につかない」などと戦死した父の代わりに教えてくれました。
また、興味のある事は和洋を問わずどん欲に吸収する新しがり屋でもありました。
先祖は、伊勢(三重県)の地頭の流れをくむ家城氏。
山田家初代の善右衛門方英は、元服の際、前田利家に仕え、姓を母方の山田に改めた。
二代目治右衛門方良は富山藩祖の前田利次に従って富山に移り九代の方雄まで、歴代藩主の護衛役である御馬廻役などを務めた。

学績の跡

明治8年(1875)富山市総曲輪に生れる。
山田博士は、幼い頃から学び中学校を、好成績を収めながら「多くの学術を学んでもすべてが必要か」 という理由で退学した。
塾で国学を勉強しながら小学校の教員資格を取得し、草島、上市、下村の小学 校で教鞭を執った。
十数キロの距離を真冬も問わず歩いて通勤し、授業を一日も休む事はなかった。
その後、中学・師範学校の教員に合格後、兵庫、奈良、高知で教壇に立ち日本大学と東北帝国大学 の教授を歴任。

山田孝雄博士 石碑学歴も学位もなく独学で教授の座まで登り詰めた。そして、ついに昭和4年 (1929年)に 明治35年 (1902年=27才) に文部省に提出した「日本文法論」が二十年越しに認められ文学博士の学位を得た。
この原動力になった出来事が、兵庫県の鳳鳴義塾教員の頃、生徒から「主語につく『は』が主格 でない場合にも使われていると質問され」答えに窮したことから国文法にまい進するようになったとい われている。
そして、昭和15年(1940年)に神宮皇學館大學学長、昭和16年(1941年)神祇院参与、同年肇国聖蹟調査 委員、昭和19年(1944年)に学術研究会会議会員、同年貴族院議員に勅撰、文部省国史編修官、昭和20年 7月 (1945年)には国史編修院長、同年愛宕神社名誉宮司となる。
戦後は、一時公職追放を受ける。昭和 24年(1949年)仙台市に移り、国語辞典の編修に専念、昭和28年(1953年)に文化功労者昭和32年(1957年) 独創的な文法体系を打ち立て、国語学会に新風を送り込んだとして「科学、芸術など文科の発達に卓絶 した功績のあった個人」に贈られる文化勲章を受章。
またその年には富山市名誉市民第一号として推薦された。
翌年、昭和33年(1958年)結腸癌のために入院先の東北大学附属病院で死亡85歳。従三位・勲二 等旭日重光章。墓は富山市内の長慶寺境内にある。

山田孝雄博士

山田孝雄文庫

山田孝雄博士 文庫平成11年 (1999年)11月5日に富山市立図書館へ親族によって寄贈され「山田孝雄文庫」として開設さ れた。
それは、和装本と洋装本と合わせて約18,000点と広範囲な蔵書である。特に着目すべきは膨大な 書込みがあり、たとえ良書と定評のある注釈書であっても解釈語釈に誤り多しと書き込んである。
また、 自身の著作にも多くの書込みをしている。それは、初版本はもちろん二訂本、三訂本にもある。
内容は、 開設の訂正や追加をはじめ、語例・文例の交換や追加など多岐にわたり、その厳しい研究の姿勢がわかる。
link富山市立図書館

山田孝雄博士

文法理論

山田孝雄博士 文法理論山田博士の文法理論は山田文法として知られ、堅実で実証的かつ独創性に
あふれた研究には定評がある。
古写本の複製などにも多大な尽力をはらった。
一方で、戦前の国語改革を徹底的に批判すると共に
戦前国粋主義への思想的な裏付けを与えた可能性も指摘されている。

山田孝雄博士

著名人との関わり

文部省に学位授与を認められたのは、実に27年後のこと。
ただ、哲学者の安部次郎、辞典「大言海」の大槻文彦博士、さらには文豪の森鴎外や土肥晩翠らからは、すでに「さん」づけで呼ばれ交流があったから、文部省の学位授与は学者仲間の評価を追認した形である。
谷崎潤一郎が、受けた中央公論社の源氏物語の口語訳を引き受け、その校閲者を中央公論社が山田博士に依頼。
口語訳の第一稿の校正刷りを綿密に手を入れ返送した。その的確な指摘に谷崎は感服し、信頼の念を強めた。
博士は、源氏物語に関する書を200册以上身辺に置いて谷崎の口語訳を一字一句ゆるがせずに読み検討したのである。
また、谷崎は、仙台の博士を訪ね、時局柄削除しなければならなかった個所を完全復活した口語訳を試みたいとあらためて協力を依頼した。
かくして「谷崎源氏」が原文にもっとも忠実にかつ格調高い訳であると高く評価されるに至ったのは山田博士の大きな力添えがあったからといえる。

山田孝雄博士

子孫

長男/「忠雄」氏
国語学者。新明解国語辞典(三省堂刊)の編集主幹を務め単なる語句の意味にとどまらず言葉を発する時の心情や通俗的な意味などもふんだんに盛り込んだ。特にその五版は、編集に興味を募らせた作家・赤瀬川原平が単行本「新解さんの謎」(文藝春秋)を出版してベストセラーにもなったほど人間味のある異色の編集だった。

二男/「英雄」氏
日本史学者。新潟大学名誉教授。

三男/「俊雄」氏
国語学者。元成城大学学長。

この「三兄弟」と孝雄氏の共薯に岩波古典文学体系「今昔物語」があり、まさに親子共同での証しが残された。
俊雄氏は、「父は、息子達が自分と同じ舞台で論議できるようになったことがうれしくて仕方の ない様子でした。」

二女/「みづえ」さん
角川俳句賞受賞の俳人。 三女/「さなへ」さん。コスモス同人の歌人。

孫/「明雄」氏
忠雄氏の長男。帝京大学教授(数学)。父誘われ「新明解」の編者にも名を連ねている。

孫/「貞雄」氏
俊雄氏の二男。国立国語研究所主任研究員。

山田孝雄博士

布都御魂大刀

布都御魂大刀

この掛軸は、山田博士の還暦の際に「国文学会」のメンバーが安田靱彦画伯に依頼し染筆してもらった画である。山田先生は、美術眼もあり、教え子などに数時間にわたり話をされていた。当時先生は、大正博覧会に出した竹内趙鳳の「夕陽」や彫刻の高村光雲の「月」が大変好きで特に光雲の「月」の作品に二百円の値段が付けられていた。ところが、自分には二百円の才覚は容易につかなかったが、何とか工面して会場へ入ったがすでに売約済みになっていた。
しかし、買った人が前田候と聞き、また見られることもあろうかと観念された。また、博士は、安田靱彦の画も好きで将来性を買っていた。なるほど、その後朝日賞を受賞し評価が上がり博士の先見の眼が証明された。
このことが、国文学会のメンバーから博士への還暦の記念品として安田靱彦先生にお願いするきっかけとなり、有志で募った僅か五十円でお願いに行ったが、すでに大家である先生の絵は買えなかった。そこで「山田博士のために色紙でも」とお願いしたところ「私の絵を愛して下さる山田先生に新しく描きましょう。」といって新たに染筆して下さったのがこの画である。
これは、「古事記の高倉下の劔で高倉下が神武天皇に武御雷の剣を差し上げている画である。」自描で単純であるが緊張した誠意のあふれる高倉下の顔が博士にそっくりなのでみんな驚いてしまった。あまりにも大傑作なので先生は大変喜ばれて山田家の宝にするといわれた。

山田孝雄博士

在りし日の博士

在りし日の博士

上四点:富山市立図書館所蔵

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