越中稲荷神社
歴史

【稲荷町は戦国時代より街道筋の要衛として豊富な歴史がある】

大正・昭和初期の頃の様子

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稲荷町は長い長い町である。七丁目まであった。今は統合されて、だいたい一・二丁目が一丁目、三・四丁目が二丁目、五・六丁目が三丁目になっている。七丁目だけは、都市計画区域外のせいか、そのままになっているようだ。
「長い長い長柄町の、流しの下に、長い蛇が七筋・・・・・」とわらべ歌にうたわれた長柄町と、この点よく似ている。しかし稲荷町の町筋の方がずっと長い。稲荷町は、新庄、水橋に通づる富山の東の玄関口であり、長柄町は八尾方面に通づる南西口である点も、よく似ている。稲荷町や稲荷村の名は、この地のうぶすなの神稲荷神社の名からきたもの。長柄町は、ここに長柄者(槍持ちの軽輩武士)が多かったからである。
とにかく街道筋の要衛だから、豊富な歴史を持っている。戦国争乱の頃には、ここに稲荷城があった。一夜にして築いたので一夜城の名があるが、五~六日はかかったろう。城というが、急造の小さなとりでのようなもの。今も土居や石垣の跡が、一部に残っている。稲荷神社の社地も城の中だった。東に新庄城、北に豊田城を控え、越後の上杉謙信勢(父祖の長尾氏を含め)の越中乱入の時、取られたり取りかえしたりの攻防戦がくりかえされたという。藩政になってからも、ここは富山藩十万石と加賀藩百万石との境で今の藤沢酒店のあたりに関所があって、物資の交流運搬をいちいち取り締まっていた。 こんな堅い話ばかりではない。ここは花街として栄えた実績がある。
「行こか稲荷町 戻ろか出町 ここは思案の柳町」こんな古謡を覚えている。稲荷町の妓楼へ行って遊ぼうか、それとも出町(清水・山室口)の遊女を楽しもうかと迷っている、遊野郎の浮き浮きとしたさまをホウフツさせる。
藩政初期、ここに近在の農家や商人が集まって、市が立った。「おなか市」といい、一丁目のがめ茶屋あたり。集まる商人やお客を目当てに、茶屋が三軒できた。小右衛門、三郎兵衛、仁佐衛門といい、茶くみ女が二〇人もいたという。延宝八年(一六八〇)には、こんなサービス関係の店が二〇軒ばかりに増えたので、町端ゆえに旅籠屋とし、茶くみ女を飯盛女とするよう、藩へ願い出た。これより前に、西岩瀬の八重の湊(八重津浜か)にあった遊女屋もここへ移っていた。藩では、営業と、飯盛女の名義で遊女二〇人を置くことを許し、三軒茶屋の主人を小頭に任命した。こんな女持ち旅籠屋は、盛んな時は二〇軒余りを数えた。柳町との境の「与茂太郎橋」は、お客がここで遊女ときぬぎぬの別れを惜しんだので「さいなら橋」といわれたそうな。

元富山県郷土史会長 八尾正治
当神社の宝物として戦国時代の歴史的証拠が残されています。

越中稲荷神社

明治に入り稲荷の花街は、桜木町・北新地へ
そして東新地(東郭=現在の東町)へ移り明治・大正・昭和初期にまで賑わった

稲荷町は戦国時代より街道筋の要衛として豊富な歴史がある江戸末期嘉永2年(1849年)当時10代藩主前田利保が隠居所として能舞台など贅を尽くした「千歳御殿」(現在の桜木町)が建てられたが、その6年後に焼失し再建された。
明治になり廃城後、荒廃地となった。明治5年(1872年)に風俗の取り締まりから稲荷町・北新地の一部の妓楼などが、この地に集められ地名を桜木町として形作られた。
藩政初期より栄えた稲荷町の高級花街は、この頃から、桜木町・北新地へ移った。さらに明治28年に富山県庁は、北新地を清水の字水引割、竹鼻に移転することを決定。当時清水田圃といわれた水田を埋め立てて、出来たのが「東新地」いわゆる「東廓」である。
北新地ばかりでなく桜木町から移った妓楼があり、桜木町をしのぐ不夜城になった。しかし格式のある妓楼は残ったので、必然的に桜木町は芸を売る芸妓本位の甲地、東新地は、からだを売る娼妓本位の乙地になった。
東新地は、北の町、仲の町、南町に分かれ、仲の町が一番賑やかだった。

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